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沖縄について

時々島口の表現があり、疑問がありましたのでメールを送ります。塾長は沖縄とは
どのような縁がありますか?支障が無ければもう少し紹介して下さい。
(平成21年3月)


メールを拝見しました。ご指摘のように確かに永いお付き合いがあります。
島唄に強い関心を抱いたのは昭和37年以来、又島人との接触は44年(あるいは43年)頃だったと記憶しています。本土復帰前には東京にいた若い皆が集まって学習会を開き討論したり、音楽について語り合ったりキャンプに行ったり沢山の思い出があります。
本土の巨大資本が八重山の美しい自然を虫食い状態にしてしまうのではないか?
各不動産会社の資料を集めて、共に心配もしました。 東京には幾つもの沖縄グループが存在していましたが、その中の一つは今でも強烈な印象が残っている。
彼等はあまりにも政治色の強い仲間だった。私はその当時の返還闘争を通して島人の肝はそれなりに理解はしていた。だからこんなグループが居てもその当時は許された。しかし一方ではそのあまりにも強い色彩に反発する一団もあり、実に多様だった。政治色が強くてそれなりに結束も強かったが、仲間が少なくて自主公演が思う程進まなかった。やがて待望の旗上げ公演が出来る事になり、私が祝福を込めて指笛でステージに立ち、沖縄の歌を数曲演奏した。
皆今は一体どうしているだろうか?
40年以上年賀状を頂いているのは少数だけで、今となっては残念ながら大半と連絡が取れない。 個人名・グループ名は伏せて置きますが、どのグループにも共通して言えるのは全員芸達者だった。 故郷を離れてもやはり沖縄を愛していた人だった。つまり沖縄の声を東京でも発信しアンテナの役もしていた。 パスポートを持って本土に移りながらも同郷の島人と会し、又私の様な大和人とも接し互いに悩み励まし合っていた連中で、 今も幾つもの思い出がある。その中にはやはりここでは文章にしたくない意見もあった(中には発表不可能な事例があった)。
あの当時沖縄人と接しておれば否応なく大きな闘争の中へ入る事になった。今思えば私も若かったし、 又これをきっかけに政治についても感じる所があり、乗りかかった船と覚悟を決めた時でもあった。 現実に日本人が行きたいと望んでも当時としては未だ渡行不可能であり、アンテナを通して口コミでの情報入手の方法しかなかった。
本土に居ただけでは判らない様々な事情を島人から直接吸収し、栄養として今日の基礎を築いていた。 昭和50年頃は在京のいくつもの沖縄グループに顔を出していました。生の島唄に接したり、 料理店では食べられない珍しい郷土料理を頂いたり、乞われて指笛を披露したりと楽しかったものです。 地元(沖縄)の高卒生が卒業後上京して歓迎会の時に私が招待された事もあった。首都圏で沖縄の芸能公演があれば、大小を問わずその情報が伝わったので何度も出かけて楽しんだ。会場のロビー等で知人達とのゆんたくも面白かったし、時には礼服に身を包んだ著名な芸能人を観客の中に見る事もあった。

当時OHKに赴任間近の川○アナウンサーが何ヵ所にも挨拶迴りをしていました。小柄でハリのあるバリトンの声、 そして腰の低いメタボ気味の体形が印象に残っています。私も各団体との別れのスピーチに同席しており、 私の指笛を聞いてもらえたのですが、最近は全くTVで見る事は無い。お元気で居られるだろうか気掛りです。

初めて沖縄を訪れたのは昭和51年夏の船旅で始まる約半月の旅行でした。
与論島を過ぎると本土からのTVの電波が届かず、翌朝沖縄から届いた田中元総理逮捕のビッグニュースで船内が大きく沸きました。 当日全員実に晴れやかな気分で沖縄に到着しました。
沖縄ではチャンピオンの具志堅が「いよいよ8月1日から人は右、車は左」のCMをしていましたが、 案の定各地で車の接触事故が発生してしまいました。当時の観光バスに乗って幾つかの名所巡りの他に、 大和人には知られざる所にも知人の案内でドライブしました。たとえば、平敷屋のエイサーを見たり、無人島にモーターボートで出かけ、 魚釣りを楽しんだり、檻にかかり生捕りにされたマングースと頬寄せて話し合ったりと今でも良く覚えています。

初回の旅行ではYS−11に乗って八重山にも行きました。本土からの若い皆さんと観光バスに乗り島内を一周しましたが、マイクが回ってきて沖縄の歌を歌ったのは私一人だけでした。
その頃沖縄のわらべ唄を幾つも歌える人は一部のマニアしか居なかった。バスの運転手は何も言わず私を見てニコニコ顔でした(その頃ガイドさんは居らず、テープの案内でした)。ホーバークラフトで竹富島にも足を伸ばしました。竹富島でお世話になった民宿では翌日ハブ驚動がありました。しかし今はもう居ないでしょう。アクビをするような動作が何とも言えず愛らしい姿でした。

当時沖縄旅行は憧れの的でした。特に新婚旅行のヒット商品になっていました。
しかし戦後生まれの若い人々が、沖縄の苦悩・歴史など何も知らないまま、遊びに出かけるだけで地元の内情など全くの無関心でした。指笛と同様に表面しか知らないまま行動を起こしていました。生の沖縄を知る事なく、お金だけを落して帰って行く単なる旅行者だった。

その後も沖縄の訪問は何度かあります。初期は観光目的でしたが、やがて指笛演奏が主となり今又観光客に混じって楽しんでいます。 毎年台風の季節になると被害を、逆に水不足はどうだろうかと心配し、米軍に関係する事件の報道に心を痛めています。
今は飛行機で簡単に行けますが、着陸した後、降りる前に一礼します。沖縄が今も本土の犠牲になっていることを知っているからです (昔もそうだった。申し訳ないのです)。
例えば日本の最先端に位置する一外様大名である薩摩藩が、なぜ長く続いた徳川幕府を倒す力があったのか?
歴史教科書にはっきり書いてなくても、沖縄人には本当の理由が判っている。細かく私心を述べればキリがありません。 沖縄には指笛同様今も熱い想いを寄せています。
(今月も訪問の予定です)

追伸  無事予定の沖縄旅行から帰ってきました。各地の観光スポットをやや駆け足でしたが、沖縄ホリデーを存分に楽しむ事が出来て満足しています。観光バスの運転手とガイドさんは、指笛について熱心に質問してくれました。今回もおいしい土産を買いました。H記念塔ではコースを一人抜け出しHさんに合ってきました。話を聞けばもうすぐ三月末で停年との事。長い間お疲れ様でした。四月からは少しノンビリして下さい。旅行中は好天にも恵まれ、又観光客の一人として各地で暖かい歓迎を受け、上機嫌で楽しめました。ウチナーの皆さん二拝でびる。
 最終日は飛行機がストのニュースで一瞬ヒヤリとしましたが、大丈夫でした。
又いつの日か次回は指笛の件で多くの方々にお会いしたいものですね。

好物の生ビールを片手に御機嫌。後のポスターと同じビールです。今は本土でも飲めるようです。久し振りのビールはやはり美味でした。
(素顔と名前は有名になるつもりは無いので公表しません)
平成19年11月 那覇空港内のレストランにて

ボランティア活動。平成3年3月以来何回か招待を受けて訪ねている。
ここでは特に音楽に理解があり、幅広いジャンルの演奏が行われている。実力のある著名人が多いと聞く。
指笛演奏のボランティアで訪れているのは私だけのようです。
平成19年11月 沖縄県内にて

ある音楽関係者の前で指笛演奏の実際を紹介出来る機会が得られた。広い会場が完全に静まり返ったが、温かい反応があった。
平成16年3月 沖縄県内にて

40年来の旧知を尋ねてポーズ。館長の彼とも復帰以前からの長い付合いがある。停年になった今も忙しいそうです。
話し合いの時間が少なくて、別れが辛かった。
平成20年3月 沖縄旅行の記念に